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巨悪と小悪
2016年08月01日
今、空前の田中角栄ブームなのだそうです。理由は色々あるのでしょうが、その一つとして大きいのは、前東京都知事や前経済産業大臣をはじめとする不適切な政治絡みの金の流用事件が続いているということではないかと思います。こうした一連の事件で世の多くの人が感じるのは、「けしからん」ということよりもむしろ「せこい」ということのようです。家族連れで行くような庶民的な宿泊施設への旅行に政治資金を流用したり、数十万円程度の現金を和菓子の紙袋に忍ばせて大臣室で受領したり、やることがどうもスケールが小さい。私の周囲でも、「どうせやるなら何億、何十億という豪快な額ならスカッともするけど、こんなはした金じゃ夢も希望もないんですよ」と唱えている人もいました。まったくもって暴論であることはわかるのですが、正直、私自身こうした論調に共感してしまう部分も少しあります。
メディアというのは世の流行に敏感なもので、先日NHKスペシャルが「ロッキード事件」を特集していました。私がまだ小学生の時の事件です。さほどの興味があったわけではないですが、世間というものを何も知らない少年の脳裏にも深く焼きついていることがあります。それは、どうやら世の中的には相当に有名であるらしい総合商社という分類に属する会社のかなりエライ人たちが、国会の証人喚問で手が震えて宣誓書への署名もままならない、あるいは質問に対する回答がいかにも弱々しく、今にも崩れ落ちそうといった状態で、強い動揺が見て取れるのに対し、KOとかYKといった政商という分類に属するらしい人々が、国会議員たちからの鬼気迫る厳しい追及にもまったく動じることなく、堂々と「記憶にございません。」というふてぶてしい一つ覚えの発言を繰り返しているということです。同じ人間なのに、この違いは一体どこから生まれるのか。この対比は少年の私にとって余りに鮮烈なものでした。対比があるところには、どうしてもどちらが良いのか選択するという心理機能がオートマティックに働きます。どちらも悪いことをしているようであり、究極の悪魔の選択になってしまうわけですが、一流会社のエリート・サラリーマンと海千山千の政商達のどちらが魅力的ですかと問われれば、それはもう後者ということにならざるを得ない。この私が少年時代に体験した心理状態と同様のものが、今の田中角栄ブームの背景にあるのではないでしょうか。
田中角栄自身も言わずと知れたロッキード事件の中心人物です。東京地検の特捜部は田中逮捕に向けて、かなり強引かつ緻密な捜査活動をアメリカも巻き込んだグローバル規模で推し進めます。その過程で上述のエリート・サラリーマンたちも続々と逮捕され、怖い検事さんたちの取り調べを受けることになりました。そのときの態度が皆、共通しています。最初は「俺を誰だと思っているんだ」という強気を見せていますが、「あなたは組織に利用されている」という言葉が出てくると大きく動揺しだします。自分だけが損をするということには非常に敏感で、ほどなく全面自供、いわゆる「落ちて」しまいます。最後の心理的砦として「自分は悪くない」と思える余地を示されると、一目散にそこに飛びついてしまう。それに対し、田中角栄が特捜部の任意同行に応じ開始された取り調べの冒頭に出した要望は、「紙とペンを貸して欲しい。周囲に迷惑がかからないように自民党と七日会(自らの派閥)に離脱届を書きたい」です。これを保身のない他者のための行為と無条件に礼賛することはできませんが、なんとも言い難い器の大きさを確かに感じてしまうのは私だけではないでしょう。その後、容疑についてはまったく動じることなく全面否認です。
田中角栄が今再評価されている理由、それは彼の強力な決断力と行動力にあると言われています。ただ田中角栄という人物は、高等小学校を中退して上京してから29歳で政界にデビューするまでの間、かなり危ない生き方をしていたのではないかと思われる節があり、その立身出世にも今太閤としてその逆転の人生を称賛することがためらわれる怪しさも漂っています。そして彼のいわゆる「金権政治」という手法、それは天下国家のためというよりは自らに近いところの存在、それは派閥の仲間であり、地元の支持者であるわけですが、まずはそこへの利益還元を優先するというもので、その原資を得るために世の中に利権をもたらし、その対価として金を受け取るというやり方です。ここに公明性や公正さはほとんど感じられず、日本列島改造論という天下国家の行く末に対するビジョンも、その裏にはやはり利権の創出という本末顛倒が見え隠れします。しかし、公明性や公正性と言う手間のかかるものを気にすることなく、自分の周りを金というある意味わかりやすく扱いやすいもので結びついた人間集団で固めているからこそ、大胆な決断や行動ができるという側面は確かにあるでしょう。その結果、本来の目的に合理性は欠けているとはいえ、兎にも角にも大金が速く世の中を回るという、好景気の基本条件は確保されていたのではないでしょうか。
今、その好景気の基本条件を再び整えるべく、専門的かつ難解な経済理論に基づいて大胆な金融緩和や公共投資が行われていますが、正直大きな成果は見られません。難しい理論と正しい手続き、英語ではコンプライアンスなどとも言われていますが、こういう綺麗なものに支配されすぎている世の中で、何かお金というものに対する本質が忘れられている。それは人間の欲の象徴であり、その欲望をかきたてる触媒であり、だからこそその扱いに人間としての品性と器の大きさが問われるものです。これをルールや手続きでがんじがらめに縛る世の中というのは、それだけ人間性が欠如し、人間として自分の誇りを作るという一番大事な責任を放棄した社会だとも言えるのではないでしょうか。
そうした無機質な世の中が進行していく中で、バレないであろう範囲、バレても言い訳のききそうな範囲、または自らの職務内容に比して良心のとがめない範囲で、自らのために他人の金をちょろまかす人間が後を絶たない。金額自体は小さいから、巨悪とは言えない。小悪である。もしかしたら目くじらをたてるほどの話でもないかもしれない。しかしとにかく「せこい」。そこにはロマンも誇りもない。こうした人間性の欠如に対するイラつきが、古き良き巨悪、人間田中角栄を懐かしく思い起こさせる源泉となっているのではないかと思うのです。田中角栄の評価、それは彼がすべての金を自分で動かせるという状況に立った時に、それでもどれだけ自分で自分を律することができていたのか。そこに本質があるのではないかと思います。