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上から目線

2016年07月01日

「上から目線」というものが忌み嫌われるようになり、許されざる悪行のごとく取り沙汰されるようになってどれくらい経つでしょうか。「KY」のように一過性の流行言葉に過ぎないのかと思っていましたが、どうもアンチ上から目線の風潮は時とともに勢いを増すばかりで、止まるところを知りません。上から目線で指導がましいことを言われるのは私も基本的には好きではありません。いや、もしかしたら私は人並み以上にそうした独りよがりの指導には反発を覚え、徹底的に反撃をしてしまうタイプなのかもしれません。しかしそれでも、最近の上から目線撲滅運動に賛同する気持ちにはどうしてもなれないのです。

 上から目線の発言とは、別称「説教」と呼ばれる類のものであると私は思います。ある限られた部分においてのみ他に優越しているものが、その限定的な優越性を普遍的な人間としての優越感に自らの中で昇華させ、他者を自らに全面的に劣るものとみなして人としてのあり方を説く。殆どは抽象的で具体性を欠き、論旨不明確で、一言で言えば何を言っているのかわかりません。限られた優越性の源泉には様々なものがあります。例えば年齢。歳が上だということ、それだけ経験が多いということのみの優越性を絶対とし、若者に説教をする。また学歴や資格などもそうした限られた優越性の源泉になることが多いし、特定のスポーツや武道あるいは芸事における努力や達成が、自らを全人格的に優れていると勘違いさせるもとになることもあります。更に何と言っても多いのは、社会的地位の優越性が説教の源泉となるケースでしょう。「先生」と言う肩書、「長」のつく肩書き、こうした「立場」に立つ自らに対する周囲の気遣いと自らが抱く幻想、これらが相まって、人間は抽象的で意味不明な説教を長々と続けるという醜態を晒すことになってしまうものです。

しかし、こうした上から目線の説教というのは、聞かされる方にとって多大なる時間の無駄ではあるものの、それ以外には特段の害悪はありません。つまるところは毒にも薬にもならない世間知らずの戯言です。何も排斥運動まで起こして徹底的に撲滅を図るべき対象でないように思われます。それが昨今は、やたらと上から目線が非難の対象となっています。私はこの異常なまでのアンチ上から目線の風潮の背景には、自分より上に立とうとする者は絶対に許さないという根拠のない平等意識があるような気がしてなりません。自分より上に立とうとする者は何が何でも引きずり下ろす。けれどもそこには、努力して自分が相手より上に立って見返そうという意地も反骨も感じられません。ただ似たような感情を共有できる者達で徒党を組み、「偉そうにするな」と相手を攻撃し、また「偉そうにされて不快な思いをした」と被害者感情を声高に叫ぶ。こうしたメンタリティーは受動的ではあるものの、さしたる努力も根拠もなく自らは尊重されなければいけない崇高なる存在であると唱えているように私には聞こえます。これはまさしく上から目線と表裏一体をなす精神構造であり、いわば逆上から目線と呼ぶべきものではないでしょうか。

上から目線で見られてしまう理由、それは端的に言えば相手から低く見られている、つまりなめられているからです。そうであれば対処方法は一つしかありません。努力してなめられない、デキる人間になること、そしてそれを行動と成果で証明することです。上から目線で見られることが不快で怖いからと言って、自分が安心できる心地よいお友達に囲まれた環境にばかり身を置いていても、世間が狭くなるばかりです。そして気が付いてみれば結局、自分こそが最大の上から目線人間になりかねないと思うのです。

代表取締役CEO  奥野 政樹

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