当ウェブサイトは安全と利便性向上のためにクッキー(Cookies)を使用しています。詳細はこちら

法人向けクラウド・ネットワークサービスのPacketFabric

鶏口となるも牛後となるなかれ

2024年09月01日

今月のニュースレターは私のゼミの先生、奥島孝康先生への追悼文となります。

 私は子供の頃から大人というものとは距離を置くタイプの人間で、これが先生と名の付く存在となると猶更で、どこか遠い世界の人に思われ、およそお近きになるということが想像できない対象だった。奥島ゼミに入ったのも、就職に有利だと浮ついた噂にのっただけであり、それ以上の、何か深淵なる思いがあったわけではなかった。それでも法律の勉強はそこそこしていたので、年に2、3回回ってくる例のグループ討論では、相手チームを完膚なきまでに叩きのめすことに血道をあげていたが、そんなときにチラって先生の方を見ると、先生は目を閉じて寝ているように見えた。元来があまり社交的ではなく、大勢で酒を飲んで騒ぐということには全くもって馴染めなかったので、ゼミの中でも中心を外れた存在だったと思う。先生とお話をしたこともなかった。

 ただ、一度だけ、4年の夏合宿で、先生が進路について全員と個人面談をされるということで、学生時代、最初で、最後、初めて対話させていただくこととなった。「お前は、進路をどう考えておるか?」と聞かれた私は、「K銀に行きたいと思っています。」と答えた。今は無くなってしまったが、当時は大蔵省とも対等に渡り合えると言われた、少数精鋭のエリートバンクだ。すると先生は、「そうか?なぜだ?」と聞く。私は、「それは、やはり、1番のところに行きたい」とでも答えたのではないだろうか。先生は、それ自体を否定はしなかったが、少し間をあけて、「俺は、モットーは、常に、鶏口となるも牛後となるなかれ、だ。」と仰った。それに対して私は、「私は、牛頭を目指したい」と答えたのだけは明確に覚えている。先生は、「そうか。じゃ、俺がお前にしてやれることは何もない。自分でなんとかしろ。」と言われ、面談は極めて効率的に終了した。

 結局、私はK銀の最終役員面接で落とされ、代わりに、日本で最大の牛どころか、マンモスかはたまた恐竜かという会社に職を得ることとなった。何年か歌舞伎町で、今でいうところの反社会的勢力事務所まわりみたいなディープな仕事をしていたが、幸運なことに米国のロースクールに会社派遣で就学をさせてもらえることになった。そうすると大学教授の推薦状というのが必要になってくる。先生は当時、法学部長をされていた。そんな偉い人が推薦状なんか書いてくれるのかなと、恐る恐る学部長室を訪ね、「失礼します」とドアを開けると、先生は、「おう。入れ。」と快く迎えてくれた。「先生、僕のこと覚えてますか?」と聞くと、即座に、「覚えとる」とのこと。本当かなと思ったが、それでも、ホッとした。「何校出願するんだ」と聞かれ、「はい、出せるとこは全部だそうと思いますので、24校になります。」と答えたところ、「バカ者!それじゃ、俺は100もサインせんといかんということじゃないか!」と怒鳴られたが、既に覚悟はされたように見えた。「はい、お願いします。」ということで日を改め、私が持ち込んだ推薦状の山に先生がサインしては、私が封筒に入れて、それをまた、先生がサインで封印という作業を2人で小一時間行った。先生は、サインしながら私に、「これで、お前さんもエリートなんだから、しっかり自覚を持たんといかんぞ」と仰られた。それが、私がフワフワしてるように見えたからなのかどうか、いまだにわからない。ただ、牛頭に立てる人間と少しは認めてくれたのか、とも思った。

 私はその後、ニューヨーク大学ロースクールという、まあ、望まれた環境のところに行けることになった。なんだかんだ言って、学部長の推薦状が効いたのではないかと思う。アメリカというのは、そういう肩書をとても重視する国だ。そんなことで、先生に多少の感謝もしながら、始まったばかりの留学生活をやや不安に包まれながら送っていると、学校の掲示板に信じられない張り紙を見つけた。「日本の早稲田大学法学部長が来校予定。日本における法律教育を語る。」「え、先生来るの?」日本人留学生の中では、東京大学出身者と早稲田大学出身者が2大勢力であったが、早稲田グループの盛り上がりが大変なものであったことは想像に難くないであろう。当日、先生は大きな輪に囲まれていたが、私の顔を見つけると、「おう。不思議なことがあるものだなあ。」と自ら近づいてきてくれた。「Dean Okushimaの直接の生徒なら」ということで、なぜか私は極めて不適切な出で立ちのまま、早稲田大学法学部長歓迎の夕食会にも出席することになってしまった。ニューヨーク大学には世界で名をはせる法学者が複数いて、その御前で、君もスピーチしろと言われて、たどたどしい英語で「奥島先生は、私をここに導いた。次は、君たちの番だ」ととんでもない不遜なことを言ったが、幸か不幸か通じなかったようだった。先生は別れ際に、「わしもドイツ語なら多少はいけるのだが、英語となるとどうもな。」と負け惜しみを言われたが、私にとっては、初めて聞く先生の弱音がもっとも励みになった。

 その後、先生は早稲田大学総長になり、退任後も、高校野球連盟やボーイスカウト連盟、相撲の八百長改革委員会など様々な重職を務められて、最後は、日本で一番大きな勲章を授与された。まさしく牛頭人生であったのではなかろうか。一方の私はというと、もう20年以上も社員30人くらいの小さな外資系企業の長をやっている。これぞ、鶏口人生の見本のようなものである。でも、先生の教えは確かに正しかった。いつのまにか、先生から、この教えをいただいたときの先生のお歳を大きく超える年齢になったが、まだ、日々、生々しく闘えている。その先生が、もう、この世にはいないという事実は、果てしもなく寂しい。


代表取締役 CEO 奥野 政樹

各種お問合せ、お見積もり、資料請求に関するご質問を承っております。まずはお気軽にご連絡ください。

ページトップ戻る