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ディズニーの作るスター・ウォーズ  

2018年02月01日

昨年末に映画スター・ウォーズのエピソード8を観に行きました。なにせルーク・スカイウォーカーを主人公とした第1作目の公開は私がまだ中学生の時であり、それから40年近くが過ぎているわけです。この間、私達はずっとこのストーリーを時々につれずっと追いかけてきたわけですが、中学生のときの未熟な感性と齢50を超えて少しは精度が上がった今の感性では、ストーリーが持つ重要性も大きく変わりそうなものですが、実際はそうでもありません。

 フォースという不思議な力。どんなに「世の中のバランス」をとっているとか「フォースは至るところに満ちている。岩にも草にも。」とか哲学的に説明されても、冷静に見ると、人の心を操ったり物を触れずに動かしたりするあたり、やっぱり特定の者だけが持つただの超能力にしか見えません。そしてその超能力には正しい使い方と間違えた使い方、つまりダークサイドがある。正しい使い方について言えば、ダークサイドと闘うというウルトラマン的でビジョンに欠ける対症療法的正義感の発露以外の意味がどこにあるのかは、正直よくわからない。しかしダークサイドの方は明確で、支配や自己実現のために他者の抑圧に使われるということがわかる。この非対称的な対比が、実世界における理解力や暗記力といういわゆる「頭の良さ」と呼ばれるものの使い方の類型に妙に似ている感があり、ただのSFの中の超能力として無視はできないものを感じる。これは40年、私の中でずっと変わらないわけです。

ところで多くの方がご存じのように、スター・ウォーズの制作は前作のエピソード7から変わっています。それまではジョージ・ルーカスが制作の総指揮をとっていたのが、今はディズニーが作っています。みんなこの点をどう思っているのかなあと考えますが、あまりそういう観点からの批評は見られません。私は、作風がかなり変わったと思います。ディズニーになってディズニーらしくなった。ディズニーというのは夢を語る会社です。つまり現実というものからはなるべく遠い存在でいようとする特性があります。なのでディズニーの世界に登場するキャラクターというのは、ディズニーの作る夢の世界に適応するようにキッチリと作り込まれているわけです。早い話が、ディズニーのキャラクターには人間味がありません。人間らしい矛盾や突っ込みどころはなく、各キャラクターは割り当てられた役割を完璧に表現することを求められる。

 今回エピソード8にジェダイ・マスターのヨーダの霊が、なんの意外性もなく計算されつくした感満載で登場します。しかしこれはディズニーのヨーダであり、これまで私が慣れ親しんできたルーカスのヨーダとは本質的に違うものでした。今回、洞窟に長い年月秘蔵されていたジェダイの秘本がすべて焼けてしまったことを嘆くルーク・スカイウォーカーに向かってヨーダは、「焼けてしまっても、大事なことは頭の中にあるから大丈夫」みたいなご託宣を述べていました。一見、いかにもヨーダらしいけれど違うのです。これはやはり、フォースの大マスターという役割を担うヨーダに対してディズニーが完璧に計算して割り当てたセリフにしか、私には聞こえませんでした。「本当」のヨーダならこんな聖職者みたいなことは言わないはずです。

ヨーダというのはエピソード5で初お目見えしたとき齢860くらいではなかったかと思いますが、その本質は、聖職者というよりは、説教の多い爺さんです。言うことなすこと独断と偏見に満ちており、大して正しくない。やることはかなりわがまま勝手で、かなり周囲に迷惑をかけます。精神論とまるで見てきたかのような未来像を披露しますが、前者はあまり的を射ていない。ルークについても最初は「この子は感情的すぎてジェダイにはなれない」というような決め付けをしていましたが、結果的にルークは立派に育っています。またアナキン・スカイウォーカーにしても、「負の感情が強すぎる」といったような理由でジェダイのトレーニングをさせることに反対していました。アナキンがやがてダース・ベーダーになったことを考えると、それ自体は確かに当たっていたのかもしれません。けれどもそれは結果論であって、要するに、よくいるとにかく何でも反対する人間のもの言いに近い。

 そういう突っ込みどころだらけのヨーダがなぜ尊敬され、類まれな存在感を発揮するのか。それは一言「強いから」です。とにかくヨーダは強いのです。エピソード5では沼に落ちた戦闘機をフォースで持ち上げ、岸辺にきれいに着陸させていました。そして、そんなことできるはずがないと最初からあきらめ顔のルークに対してこれみよがしの気取り顔。また、エピソード2だったと思いますが、次々と相手によって破壊され倒れかかってくる一本2トンはありそうなパルテノン神殿ばりの石柱をすべてフォースで受け止め投げ飛ばし、相手に対してここぞとばかりのドヤ顔。他をまったく寄せ付けないこの戦闘力があるからこそ、この爺さんは何を言っても何をやっても許される。ヨーダというのはそういう存在なのです。

要するに、フォースと同じくそのフォースのシンボルでありカリスマであるヨーダも、実はフォースが標榜するところの知性と理性に満ちた存在などではなく、力にその本質がある。この一筋縄ではいかない矛盾。これこそが現実であり、この現実感がジョージ・ルーカスのスター・ウォーズの底流には常に流れているのです。今、ディズニーになってこの現実感はすべて夢に置き換えられ、すべての因果関係がきれいに整理され、一部の隙もなく論理的に繋がるようになりました。ディズニーというのは人気があります。こうした矛盾のなさが人々に与える安心感、それが好きな人は多いのでしょう。なので、今のスター・ウォーズの評判が決して悪くない事は私も知っています。しかし実際は、みんなどう思っているのかなあと考えてしまうのです。私のように物足りなさを感じている人間はいないものなのか。なにせディズニーの悪口はそう簡単には言えないというのが現実ですから、そのあたりのところを把握するのは中々に困難であるのが非常にもどかしいところです。

 

代表取締役 CEO  奥野 政樹

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