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Z世代
2023年09月01日
いつの世でも、若者の言動が永年の社会的抑圧からの疲労蓄積ですっかり思考が硬直化してしまった自らの目に不愉快に映るときに、相互理解やコミュニケーションを放棄し、そうした若者を「XX世代だから仕方ない」と呼び捨てて優位を保とうとする年配者は存在します。私が若い頃、それは「新人類(世代)」という言葉でした。ウィキペディアによる(以下、引用は同)と、新人類は「インベーダーゲームや大学入試における共通一次試験などに象徴される、それ以前の時代とは違う画一化社会に迎合し、無気力的傾向のある若者」であり、「成熟した成人として、社会を構成する一員の自覚と責任を引き受けることを拒否し、社会そのものが一つのフィクション(物語)であるという立場をとる」のだそうです。当時も納得感に極めて乏しかったですが、今読み返してみると腹が立ちます。「画一社会への迎合」「社会の構成員の一員としての責任感の欠如」はまさしく、当時の年配者の多くに対して若者達が感じていたことそのままではないですか。
その後、割と最近まで「ゆとり世代」というのが盛んに使われていました。いわゆる「ゆとり教育を受けた世代のこと」で「戦後の経済成長期の世代と比較すると堅実で安定した生活を求める傾向があり、流行に左右されず、無駄がなく自分にここちいいもの、プライドよりも実質性のあるものを選ぶという消費スタイルをもっている[26]。また、結果を悟り高望みをしないため、この世代は「さとり世代」とも呼ばれて」います。比較されている戦後の高度成長期の世代とはつまり「団塊の世代」です。その間、50年ほど離れている。まず、この比較自体がナンセンスです。確かにこの団塊の世代が熟成させてきた戦後日本の中央官庁による民間企業の暗黙支配を基盤とした護送船団方式資本主義は80年代後半の外圧から90年代前半のバブル崩壊により壊滅的な打撃を受け、日本は失われた30年という経済停滞に突入します。そうした中でまず大人たちが現実路線に走った。そうした大人達に育てられたのがゆとり世代ですから、こうした社会的背景がその人格形成に強い影響を与えているということは否定できないかもしれません。
しかし、世間一般で年配者が「ゆとり世代」に諦めの念を表面するときのメンタリティーは明らかにこうした時代の背景に基づいたものではありません。それは「勉強で努力をしなかった根性のないもの達」という意味合いで使われており、こちらの方がむしろ市政では「ゆとり世代」の特徴と捉えられています。私は、これは暴論以外の何物でもないと思っています。学校教育、中でも授業や教科書に書いてあることが自らの人格形成に影響を与えた要素などどこを探しても見つからないからです。
さて、最近の若者は「Z世代」と呼ばれています。なぜ突然Zかというと、実は米国にはその前にX世代、Y世代というのがあるからです。いずれもその成長期におけるデジタル社会の進捗度に背景を特化して世代をカテゴライズしようというもので、かなり短絡的である感は否めません。しかし、デジタル化の進展が確かに世界を狭くし、似たような傾向が洋の東西を問わず起こりがちというのもまあ一面心理なので、とりあえずZからは日本でも適用することとしたのでしょう。
Z世代とは、「概ね1990年代中盤から2010年代序盤までに生まれた世代のことである[2][3]。生まれた時点でインターネットが利用可能であった人類史上最初の世代である。いわゆるデジタルネイティブ」です。より具体的には、スマホとSNSが幼少期から身近にあった世代です。その特徴には保守的な金銭感覚、ダイバーシティーを尊重する、自分らしさを重視するなどが挙げられています。あれ、ちょっと待ってください。これ、私じゃないですか?私は、Z世代?
そういえば、私は元々、同世代の人達とはあまり話が合わない傾向があります。いつも同級生や同期の間では浮きがちな存在で、むしろ上下とも異世代の人達の方が話は噛み合いやすい。恐ろしいことに、年を重ねるごと終末への距離が縮まってくると同世代の幅が拡大していきます。ついこの間までは5歳も違えば大先輩、あるいは遠い後輩だったのが、今では、みな同世代にしか感じられない。そうすると私の場合、どんどん話の合わない人ばかりが増えて孤立を深めることになってしまいます。しかし、ふと振り返ってみると、滅多にないとは言え、Z世代と話していると違和感がないような気がするのです。先日も親しくさせていただいている会社のインターンが当社に訪問してきましたが、なぜか友達のように話し込んでしまいます。
うーむ。これは一体、なんなのでしょうか。私の人格形成に大きな影響を与えた幼少期の経験は何だったのか。それは多分、大人の子供社会への干渉に対する徹底的拒絶でした。いや、拒絶というより当時はまだ大人と子供の社会は完全に分離していて両者は別世界だったのです。私は団地育ちで、そこには年齢横断的な子供のコミュニティーがあり、その運営はすべて子供に自治が任されていました。大人が口を挟む余地は全く無かった。例えば野球をやるにしても、大人の指導者などいません。すべて子供だけで決めるのです。そういう環境だと、画一というものは殆どありません。外から規範は与えられない。ダイバーシティーを許容し合いながら内製的に一つの方向性を見出していかなければいけないのです。
この子供の自治はその後世の中から消滅しました。理由は簡単です。世の中が危険になってしまったのです。子供の安全を守るためには大人が枠組みを決めるしかない。都市化が進めばこれはもうどうにもならない、避けられないことなのです。その結果、子供たちは主体性と多様性と集団力を退化させてしまう。画一的で個人主義的になってしまうのも仕方がありません。
しかし、デジタル社会の到来。これにより子供たちはもしかしたら、子供の自治を取り戻したのではないでしょうか。大人は、どんなに頑張ってもバーチャルな世界では子供たちをコントロールすることはできないのです。デジタル・ネイティブ。私からはかなり遠いところにある世界です。しかし、時代は実は一周回って新人類世代に回帰してきているのかもしれません。
代表取締役 CEO 奥野 政樹