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麻雀採用

2014年10月01日

私が麻雀をやることをご存じの知人から、「麻雀採用」をやっている会社があるという記事をいただきました。もし半荘を何回かやって上位から定員まで採用ということだとすると、随分と乱暴な話だと思いましたが、さすがにそういうことではないようです。麻雀プロに審査員を依頼するなどして受験者の打ち方を評価するようですが、ではどういう打ち方をするとどのように評価されるのかが気になるところです。しかし、そこは残念ながら記事には書かれていませんでした。

 今の若い人達はあまりやらなくなってしまいましたが、以前は囲碁、将棋、麻雀といえば、社会人の基本的なたしなみでした。中でも麻雀は、囲碁や将棋に比べ世の中の本質に近い要素を持っており、確かに、個々の打ち筋がその人の社会人としての立ち居振る舞いに共通する面もなきにしもあらず、ではあるかもしれません。麻雀が他の2つに比べて世の中の本質に近いというのは、まず囲碁や将棋は2人でやるゲームであるのに対して、麻雀は4人でやるということになります。世の中において自分から見た対人関係というのは、1対1の単純系ではなく1対多の複雑系ですから、麻雀の中で現出される人間関係はそれだけ世の中に近いわけです。更に決定的な違いは、囲碁や将棋が盤上において勝負に必要なすべての情報が可視化されているのに対し、麻雀の場合、相手の手牌も山に残っている牌も秘密または不確定な情報で、それを推測しながらゲームを進めるということです。また裏ドラなどという、考えてもどうにもならない、単純に運に左右される要素も多い。すべての情報が可視化され紛れがない状況と、不確定要因に囲まれた状況の、どちらが世の中の現実に近いかは言わずもがなでしょう。もっとも最近は、世の中のあらゆる情報を可視化することで業務の質が高まるなどという戯言を真顔で唱える人も増えているので、言わずもがなでもないのかもしれませんが… 


さて麻雀採用ですが、自分が試験官ならどのような観点から判断するかを考えてみました。まず、打牌が遅い人は即失格です。一牌つもってきては顔をゆがめて動きが止まる。ようやく手牌から一つつかんで河に捨てるのかと思いきや、その手をまた引っ込めて再び思案にくれる。これはもう即不合格なのです。前述のとおり、麻雀はいくら考えても所詮不確定な要素が多く、いわゆる正解になど辿りつけないというのが本質です。もっと自分の感性を信じて小気味よく行動を起こさなければいけません。そうしないと場の流れに乗ることができなくなり、感じなければいけないことが感じられなくなって、道を踏み外してしまうことになります。それでも、本人が嵌るだけならどうぞご勝手にですが、それだけの問題ではないのです。

 麻雀というのは個々が競い合うと同時に、関係者全員で協働しながらその麻雀全体を盛り上げていくものでもあるのです。こういう優柔不断な人というのは、自分のみならずその麻雀そのものの緊張感を奪い台無しにしてしまうため、そこに関わる全員が多大なる不利益を被ることになってしまうのです。
 ここで、前段落中の前述のとおりから「麻雀」を「世の中」に置き換えて再読されてみてください。どうでしょう。そのまま、すっと心に入ってくるのではないでしょうか。


では次の判断ポイントです。麻雀をやっていると、やたらに「見える」人がいます。対局相手の打牌が手出しかツモ切かはもちろん、そのときの手つき、息遣い、表情、またそれに対する他の対戦相手の反応まで実によく見えています。各相手がそこまでどういうあがりをしたか、どういう打ちまわしをしたかも詳細に観察し、また実によく覚えています。そういう人から、「おっと、聴牌りましたね。待ちは萬子の上かな。」などとズバリ指摘されてドキっとした経験は、麻雀プレーヤーなら誰しも経験したことのあるところでしょう。

 一見凄い打ち手に思われるかも知れませんが、麻雀採用においては、私は基本このタイプは採用しないと思います。なぜなら、私はこのタイプが勝つのを見たことがないからです。このタイプは情報収集力は優れています。他人が知らないことをよく知っているし、普通は気が付かないことに実によく気が付く。それは確かでしょう。しかし、どうしても自分を取り巻く大量の情報に振り回されてしまうのです。他人が聴牌っている可能性が高いことにいち早く気がついてしまう。それで、振り込むのは嫌だから自分の手を歪めて、事前に安全策を講じる。しかし、「気付く」と言っても100%当たるわけではありません。麻雀も世の中もどうしてもわからないことの方が圧倒的多数であり、気が付いた人と気が付かない人の差など50歩100歩です。つまり情報は、麻雀でも世の中でも本質ではありません。本質は他人が何をやっているか、周囲はどうなのかではなく、あくまでも自分はどうするかなのです。

 それが、なまじ情報収集能力の高いことがかえって仇となり、情報に振り回され怯えるから、自分を曲げてしまうことで1歩も2歩も打つ手が遅れていくことになり、自分の流れが作れなくなります。結局こういう人はゲームの終盤に無理な手作りで逆転を試み、あえなく他家の見え見えの大物手に振り込みご臨終となります。私はこういう人達ほど状況は見えませんが、このタイプに雀荘で出会う度に、この結末だけはほぼ確信をもって感じられます。こういう人達はよく、「最後もわかっていたんだけど、ここはこうするしか仕方がなかったんだ。」と自らの知見を語りがちですが、どうも私にはそれが、「本当は俺が一番なのに、世の中が間違っている。」と言っているように聞こえて仕方がないのです。ということで、このタイプも落とします。   


その他、麻雀というのは、ツイていないときにはまるで神からの拷問のようにひどい仕打ちの連続になるわけですが、そこで自分を持ち崩し、打ち方が極端に乱れたり、或いは対局相手に卑屈になる、あるいは逆に強がる素振りが目立つようになればアウトとか、リスクを一切避けて逃げ回るような打ち方は駄目とか、色々評価基準はありうるでしょうが、どうもどれもネガティブ・チェックばかりになってしまいますね。何かポジティブな評価ポイントはないかを考えてみましょう。

 麻雀の醍醐味と言いますか、見せ場は2つあります。1つ目は、まず一見平凡、あるいはどちらかといえば悪い配牌から、自分独自の感性で手の進行についてある方向性を感じ取ります。その感性が実に研ぎ澄まされており、傍で見ていると、なぜそんな手進行をするのかがわかりません。しかし数順後には、配牌からは想像もつかない美と破壊力を兼ね備えた手に突き進んでいることが明らかになってきます。周囲が固唾を呑んで状況を見守るようになり、場に重苦しい緊張感が漂いはじめます。しかし、流局が近づき周囲の緊張が諦めに変わりつつあるとき、奇蹟の一牌を引き込んで、バチン。対局相手は皆言葉を失い、周囲から驚嘆の声が漏れます。これが、麻雀における攻撃の妙味です。

 一方、守備の妙味があります。そもそも、まずツイていない状況です。2時間ぶりに手らしい手が入り、途中までは順調に進む、とそこに親からリーチ、更にもう一人、急速な哭きであっという間に大きな手が聴牌気配です。しかし、こちらも2時間ぶりのチャンスですからそう簡単には引けません。状況は圧倒的に不利な中、一牌ずつ神経をすり減らすように危険牌を通していきます。しかし数順後、ある一牌を引いた瞬間、ちょっとため息をついて、その牌だけは切りません。その牌を抱えて一度手を崩します。「降りたな」誰もがそう思った数順後、その残した牌の単騎待ちをツモ上がり。見るとその牌は、ズバリ親のリーチのあたり牌。芸術的なしのぎというものです。


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でも、これを見せつけられたら感動して、その応募者を採用するかなあと考えたとき、多分しないんじゃないかなと思います。その人物に対する最も強い印象は「この人、多分麻雀ばかりやっているんだろうな。」になってしまうような気がするからです。この人は、いわゆる牌の声がよく聞こえる人で、麻雀牌の扱いは確かに優れています。牌の流れに対する感性は絶品でしょう。でも、仕事におけるゲームは人間そのものに対処することなわけですが、人間には麻雀牌と違って感情や個性があります。牌という無機質な物質が作る流れに対する感性と、人間の感情という生ものに対する感性との間に共通性はあるのでしょうか。経験からして、殆どないのではないかというのが私の答えです。

 以上、結局は、麻雀採用などというまどろっこしいことをせずに、ストレートに面接で採用という方が効率もよいし、良い人材が採用できる確率が高いのではないかという、つまらない結論に至らざるを得ない悲しい現実に気付かされた次第であります。


代表執行役CEO  奥野 政樹

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